いがっぺな日記

酔っ払いがその場で思った事を書いているだけm(__)m

坊さんについて考える 最終章

坊さんのネタもそろそろなくなり、今回が最後?となります。
知り合いに「家の坊さんはお布施が高い、、」と聞いた事があります。確かに宗派または、その寺により価格は様々であり、相場というものはありません。ただ、そこのお布施は〇〇万円以上と設定されているのがほとんど!その家の収入によっては上限が定かではないこともあるとか。前に述べた事業としては、取れるときに目一杯取ってやろう。という気持ちもわかります。但し、人の不幸につけ込んだ商売(失礼、個人的には個人、遺族の為になっているとは思えない。)としては、わからない事もないのだが、、、
まして、墓がその寺にある場合、いいなりなるしかない。そこから逃げることが出来ないのだから。ある意味、「人質」に取られているのと同じではないか?
坊さんは、故人には手厚く、遺族には容赦ない。故人を盾に遺族から金を取っていると言われてもしかたないのではないか?
読経や塔婆で、故人が救われたり仏になれたりする、院号居士で高い位を金で買える。それが、向こうの世界で通用するのか?甚だ疑問である。
仏教を含め、世界のあらゆる宗教は現在を生きている人々を救済、または、生きる指標を気付かせるためにあるのであり、そこに金銭が携わってはいけないのではないのか?ただ、現在は貨幣の流通なしで経済は成り立たないので、理想で生きてはいけない。ならば、金銭を表記して、お互いに納得できる範囲で妥協し、葬儀本来を見つめ直して、遺族の負担が極力少なくなるよう努力をし、手続きや相談、これからの気持ちの持ち方など、、心のサポートを軸にしていく事も必要ではないか?
古い形式のまま(高いお布施や、成仏の話)では、いずれ限界が来る。いつまでもあぐらをかいている場合ではないのではないだろうか?