いがっぺな日記

酔っ払いがその場で思った事を書いているだけm(__)m

継続は力

継続は力と言うタイトルの続きになります。
前回yotuberを例にあげて話すと、予告したと思います。
 何でも続けることは大切だと思いますが、それを続ける事で苦しくなる事は意味がないと考えます。yotuberはいかに視聴者のアクセスを気にして、登録者や再生回数によって収入を得ています。その為に、常に興味を引く事をしたり、紹介しなければなりません。新商品の紹介はもちろん、あまり知られてないものまで、とにかく興味を引くものでアクセスを増やそうとしています。また、ネタがなくなると、視聴者から求めたり、同業者とのコラボ、、、プライドより
アクセス?そして、他人を非難する事で賛同(アクセス)を得たい。本来の目的より現状維持、または少しでも上に行きたい!そんな気持を持つのは普通でしょう。
 結局、成功した今の生活(収入)を維持したい。それは当たり前なのだから、仕方ないのだが、、、それにこだわるばかりに、自分の人生を自ら下げてしまっているのだと思います。    
いつの世も流れは一時的なものであり、それに乗れるかは運命なのかもしれません。また、乗れるかどうかは誰にも判らないかもしれません。
 つまり、大きな目でみると、全ては神によって決められているのかもしれません。
、、、こう言うとまるく収まるかもしれませんが、真実は誰にもわかりません。要は
なるように成るしかない!と言う事だと思います。
ならば、慌てず迎え打とうではありませんか!😅    不安ですが、、、😭

志しは同じはずなのに(´Д` )

前回、yotuberを例にしますと言いましたが、ちょっとお休みして違う事を述べてみたいと思います。
同じ目的で集まって行動をするサークルやクラブは多いですね。最初は身近な人達から始まりそして輪が広がっていきます。こじんまりとしている内はいいのですが、その内「大きくしたい」という欲望が芽生えて来ます。それは同じ系統を見てそれよりも優位に立ちたい!と思う気持ちが知らずに芽生えてしまうのではないでしょうか?人は他人より優位に立ちたい欲望を持っています。それによって自分の居場所(順位)を確認したい、安心したいと思うのです。
さて、志しが同じなら増えることは大賛成なのですが、ここに人間の「我」が影響してややこしくなってしまいます。
人はそれぞれ違う親から命を貰い、いろんな事を学び成長します。その過程で自ら学ぶ力を身につけた人は、より広い視野で物事を見る事ができます。要するに情報を自ら求めるか、与えられたものだけで判断するかによって人の価値は決まるのではないかと考えます。
先程の「我」が強い人がグループに入って来ると、色々と問題が起こりますね。それは、人によってそれを受け入れるか、反発するかになります。そして、反発する人はそれを排除しようとします。それによって、自分のポリシー、いや世界を守りたいのだと思います。そこに始まりの「志し」は薄らいでしまったと思うのは悲しい事です。
人は、表と裏。本心と建前で生きています。それは他人と調和する為に必要な能力だと思います。しかし、そこに感情が入ってくると、それの力は弱くなってしまいます。
綺麗事は誰にでも言えます。そこに、自分の責任がないからです。実際、グループの責任者なら綺麗事で片付けられないはずです。
お互いに妥協できる点を模索して、実行する事が大事ではないでしょうか?非常に難しい事ですが、、、、

継続は地獄

よく「継続は力なり」と言われてますが、力と反面の弱さが共存しています。普段のこの言葉の意味は短期的なものを指しているものであって、長期では無理があるのです。技術とかは別であると思うのですが、、、、
今流行りのyotuber、小学生のなりたい職業の上位になっています。また、小学生にしてyotuberになっている人もいます。世間は新しいものが好きです。それは色々なシーンで見受けられます。各バラエティでは常に新しい演者を求めています。それは視聴者が常に新しい刺激を求めていることが根源であり、それに応えることがメディアにとって最優先になります。よって常に新しいことを要求されてそれに応えられない人は淘汰されてしまうのです。また、その要求に合致した人で、勘違いした人はすぐに消えてしまうのも事実です。
さて、一度注目を集めるとそれを維持する為には努力をしなければなりません。ここでyotuberを例にしてみたいと思います。
続きは次回!

自己防衛

巷では、反社会グループに闇営業をして、ギャラを貰わなかったという嘘がバレて大騒ぎになっているみたいですね。
人は誰でも自分が窮地に陥った時、自分を守ろうとします。その根本的な言い訳が「嘘」です。出来ることなら、「なかった」事にしてしまいたい!誰しもそう思うはずです。その心の願望が嘘となって現れるのではないでしょうか?
ただ今回何人も嘘をついていたのに、結局バレてしまった。これは誰かが口裏を合わせるよう助言したのではないか?それで乗り切る作戦ではないのか?そう考えると個人で仕切るのは難しいと思う(総勢13名に対して)
勝手な憶測ではあるが、事件が表沙汰になって、事務所からの指示もあったのではないか?
まず、反社会グループからギャラを貰わなかった事にする。不可抗力という事にして乗り切る。ただこのままでは納得してもらえないので、全ての責任を仲介をした人に押し付けて終わりにしようとしたのではないか?これは、金銭の受領が発覚する前から早くに処分した事から、疑われても仕方ないと思う。
さらに、闇営業に参加した中には、全てを話して楽になりたいと思っている人もいたはずです。そこは売れっ子芸人の売り上げを危惧する事務所が、なんらかの要請をした結果後手後手の対応になってしまったのだと思う。
その会社は、以前より闇営業や反社会グループとの接し方について講習をしていたそうです。 しかし、今回の件で書類に残る契約書もなく、なあなあでやっていた事が暴露されてしまいました。雇用者と雇い主のズボラな関係が表に出てしまったのです。ギャラの配分などはその芸人によって暴露されていましたが、まんざら嘘ではないようです。充分な賃金があれば、闇営業などに走ることはないと思います。
これを機に、会社側も芸人も互いに襟を正しお互い納得のいくルールを作る時なんじゃないかな?まず、周りの環境(よその会社)をよく見てみたら?

一期一会

みなさんは、買い物をしている時、または何げなく見ていたら気になるものがあったりしませんか?そんな時迷ったあげく「後でいいや」と思って、後日「やっぱり買おう」と行ってみたら売れてました!😖、、、、なんて事はありませんか?
その人やその物は、自分が今会えた時に存在している物であって、その時を逃したら得られないものではないのではないでしょうか?例えば、限定の値引きなど、「売れないからまたやるだろう!」と勝手に決めて諦めてしまう事があるでしょう。後悔先に立たずとありますが、まさにその通りだと思います。世の中はお金で動いています。人は誰もお金の使い方、生活におけるやりくりで生活しています。そこで、幾らかでも安い物を求めて行動しているのですが、それ故、限定や激安の言葉に弱いのは仕方ありません。先ほどの購買の選択もこれによって揺れ動くのです。
でもそれは自分にお金を使わせる事に、別の自分が止めさせる結果、辞める事を選択するのだと思います。ただ、若いうちは先がある(時間がある)から、今決めなくてもいい。と言う感情が優っているのだと思います。しかし、歳を重ねると(あと何年)という思考になり、「今やらないと、後では出来ない」と思いその後の行動が変わります。
ならば、今の感性、感情に従って行動してもいいのでは?その結果、失敗でもいいじゃない😄その人の生き様なんだから😎
そんな事を考える年頃でした😜

感じ方

母親の介護の件から、1年が経ちました。その後、症状が急激に進み三カ月後に亡くなりました。一時はこの先どこまでもやってやろう!と覚悟してから、あっというまで何がなんだかわらないまま時が経ちました。
急激に訳が分からない状態になりながらも、私の事を自分の子供と解らず、「〇〇(私の名前)に食べさせたいんだよ!」と言う言葉に、母親の愛情を改めて感じ言葉になりませんでした。その事もあって、この先どんな事があっても頑張ろうと言う気持ちが生まれた時でした。
改めて考えてみると、自分もそれなりの年齢になり、年金も視野に入り余生をどう過ごすかを考える事が多くなりました。
今までは、「まだ」だったのですが、今は「後」に変わって来ています。先が見えてきた時、みんなはどう考えているんだろう?そう言う疑問が生まれてきました。母親もどんな気持ち過ごしてきたのだろう。その時、自分は何か応えられたのか?色々考えしまいます。
ただ、何を考えても行動しても回りには伝わらない事は、今考えるとよくわかります。
やっぱり、その時期その年齢にならないとわからない。自分で体験しないと認めない。と言うか認めざるを得ない状況になるのです。
晩年近くになると、色々ありますが結局「なるようにしかならない!」けど、なるようにはなりたくない!けど、なるようにしかならない。
どっちやねん!
なんだろうな。😭

使えない?護身術

相変わらずニュースでは、人が殺されたりイジメがあったりと報じられています。被害に会わない為以外にも強くなりたい!と思って護身術や武道を習った人がいると思います。
今では、中学で武道が必須になっていますが、内容はただやっているだけ。また、指導の先生もほとんど実績がない人がやっているのが事実だと思います。また、実績があっても人数が多く、相手も授業の一環として受けている訳で本気で学ぶ気がない。そこを解ってるからとりあえずやって授業を消化することを目的にしてしまう。本気で会得したい人、本気で教えたい人がいて初めて成り立つものだと考えます。
武道を習いたい人は、大概強くなりたい一心で始める人が多いと思う。それにはイジメにあってたり精神的に強くなりたいなど、色々な理由がある。しかし、最近の武道は、相手に勝つ事だけを目的にしているように見える。
確かに礼儀を大切する事を教えてはいるが、1番の目的は大会でいい成績を残すこと。つまり
厳しい練習に負けそうな自分に勝ち、試合では相手に勝つ事を求められているのである。
ここで、この場合と逆の場合もあるので、話してみたいと思います。まず、精神面を強調し争いはしない、またはそれを止める。技術は教えるが習得することより課程を大切にする。そして、周りとの協調協力を大切に考える。素晴らしい事ではあるが、危険性もあるのではないでしょうか?
技術を楽しみながら協調を大切にする。これに重点を置くと「ただの仲良しクラブ」になっしまうかもしれない。
我が国は法治国家である。武道の技を護身術として使う場合、よほど条件が揃わないと加害者になりかねない。まして、技術を使える場所は練習場や試合会場と限定されてしまっている。
そう考えると武術を護身術として使うのはかなり難しい。つまり、非常用には武術ではなく簡単で効果のある対処法を教えるのがいいのではないのかな。中学で習う武術は身を守る事に専念し、わかりやすい単純なものを熟得させる事が良いと考えます。
武道の技は使う事よりも、その中に隠されている意味(何故そうなるのか、そうするのか)を考える事によってその人の人生を豊かにする可能性を見つける事が出来るのではないでしょうか?つまり、自分自身でいくらでも変われるということだと思います。